ふふふ・・。(Фωノ|柱
今日は私の思い出話にお付き合いいただこう。
9月18日は「敬老の日」。世間では3連休に旦那さん方は一喜、奥様方は一憂している事であろう。 かく言う我が家も、いまだ現役バリバリのばぁばの為に、何ぞ渡せるものは無いかなと考え、息子をあげた(昨日からお泊り)。 むっふ~ん。これじゃ私ばかりが得をしてそうなので、私の思い出話を添えて、ばぁばに感謝の念を捧げたいと思う。
もう20年ほど前の話になる。 当時我が家は決して裕福だ・・・とは言えない環境だった。 父親は私が5歳にも満たない頃に亡くなっており、いわゆる母子家庭で私は育った。
当時の私には「まごうことなき極貧の我が家」と映っていた。 物を大事に、無駄は省く・・・まだ考えが幼い私には、それらが判らなかった。「友達は色んなものを買ってもらったり、遊びに連れて行ってもらったりしている。 でも、我が家は貧乏がだから我慢しなくちゃいけない。」と思っていたのだ。 また、それに対する反発を 暗黙のうちに自分の中で解消しなくてはいけない・・・とも思っていた。
母は、一人で私ら年子の兄弟を育て(私は次男だ。)、仕事をし、家事に追われ、いつもいつも働いている印象だった・・・。 当時の私には、それが感謝の気持ちよりも「寂しい」方が強く映ってしまったものである。
母の口からは毎度のように「我慢、我慢」と言われ、欲しいものを買ってくれない状況に、辛く感じた事も多かった。欲しい物が買えない・・・そんな時は、新聞のチラシにある、私が欲しかったものを 日がな一日眺めていたものだ。
ふとある時、母が
「たいこうに行こう。」
と言い出した。 「たいこう」とは、焼肉屋の事だ。我が家は年に一度ほど外食をするかしないか・・・ぐらいのものなのに、焼肉とは何をかいわんや・・・と思うような驚きの発言だった。
その頃は、丁度我が家が今の実家となる街へ引っ越したばかりの頃だった。それまでに幾度かの引越し、または転校(転園)を経験し、やっと落ち着こうか・・・という環境になってきていた時だった。
私は一人で行きの道中おおはしゃぎだった。 寡黙で当時から大人びていた兄は、そんな私を横目で見ていた。 それでも嬉しい。久しぶりの「家族でのお出かけ」なのだから。
「たいこう」に着いた。 中に入る前から、駐車場はいい匂いで 私の胸を高鳴らせてくれる。少しだけ急ぎ足で中に入ると、赤色灯に照らされた店内はとても煌びやかだった。そして、そこかしこに、我が家と同じように「家族」が多かった。
案内される席に行くまでに、いくつかのテーブルを過ぎた。みんなどの席も笑顔が絶えなく、またテーブルは皿で埋め尽くされていた。
「焼肉」というのは、一般的には"大いに食べて、大いに飲む"という場のように思う。そしてそれには比例する金が掛かるのだから、「大盤振る舞いする場」に使われる事も多いのだろう。
しかし、 私は判っていた。我が家は「一人一皿しか頼んではいけない」という事を。 チラリと横の家族のテーブルを見て、慌てて兄とメニューを吟味した。 「今日は何を食べようか?」なんて兄と話しながら。
先にも話したとおり、兄は大人びている。その状況で「頼んでも良いもの」・・・という"遠慮"も把握していた人だった。 逆に私はそういうところまで全く気の廻らない子供だった。 兄は安めのものを選び、私は高めのものを選んだ。
そして、テーブルに並んだものは、私の注文とは違うものだった。 兄と一緒のものだった。
「あ、そうか。」
私は気付いた。
「折角お母さんが連れてきてくれたのに、それだけでも嬉しい事なのに、それだけで有難い事なのに。 なのに自分は、"高いものを食べたい"という、なんともあさましい考えで、欲を出してしまった」 と。
私は自分の注文とは違うものを、それでも楽しく食べたいと思い、はしゃいで食べた。「こんなに嬉しいんだよ」という事を母に判ってもらいたかった。
食べ終わった後、私は母に提案した。月に一度・・・と言いかけて、慌てて言い直して
「3ヶ月に一度はここにこうして、みんなでご飯を食べようよ。」
と言ってみたのだ。 母は、私とは目を合わせず、「そうね。」とだけ答えた。
それが最後の外食だった。
私は何も、「貧乏が憎い」だとか「母親がもっと稼げば・・・」なんて事を言いたいわけではない。むしろ、今 こうして一児の父として考えることは、
「あの時、お母さんがあんなに必死で働いて辛い時期だったのに、それでも連れて行ってくれたんだなぁ」という、感謝の念だ。当時から母なりに、私たちに苦労を感じさせまいとしてしてくれた行動なのだろうと思う。結果的にそれが最後の外食になったのだけれども、それでも母へ感謝は絶えない。 以来、20年という時間は掛かったものの、これからはせめて少しでも恩返しをしたいと思うようにまでなってきた。私も大人になった証拠なのだろう。 勿論、まだそんな金銭的な余裕があるわけでは無いのだけれど・・・。
しかし、私がこうしていろんなことを学べた背景には「貧乏」というものが大きくかかわってきた事も事実だ。そしてそれは大人になった今、役に立つものが多いと感じる。 私も出来ればそこの所を巧く選択して、息子に学ばせたいと思っている。
今でも働き詰めなばぁば。 そんなばぁばも来年で還暦になる。「おばあさん」と言われるのが嫌で、孫には「あーちゃん」と言わせているくらいの元気なばぁばだけれど、一度は大病を患い、再発はしていないものの、体力の低下や寄る年にはかなわないところもあるだろう。 私にこれから出来る事は、なるべく孫と私の顔を見せる事だと思っている。 兄の様に、何十万もするマッサージチェアとかはまだ買えないけれど、いつか旅行でもプレゼント出来たらいいと思っている。
そして、いつの日か、家族で食べに行きたいね。焼肉でも。
母へ 愛を込めて。放蕩息子より。
あたしも親への感謝の気持ちは表には素直に出せないけど
この間ファックスで送ってみたw
直接言うのはなんだか恥ずかしかったから。。。w
そしたら母親から電話がかかってきて
[色:33CCFF]「突然どうしたの?明日雨でも降るんじゃないの~~?」[/色]
だってさぁ~~~~w
何もしなかったなぁ。
今日の日に親に何かをしないとという観念がなかった。。
これ読んで、次はちゃんと感謝の気持ち言おうかなって思ったよ。
うん。
伝える事に意義がありますよ。きっとお母さんも恥ずかしかったのでしょう。うちも毎週の様に会ってる手前、なかなか直では言い辛かったりしますもん。
是非とも、これからも感謝の言葉をFAXで送り続けてくださいませ。
タグはね、多分二重にしたからしくじったのかも。太字にはなってるよ。うぃ。どんまい~ん。
たまにはいいもんだぜ。にひ。
義親にはゆうとが幼稚園からお手紙送ったんだぁ~
ばぁば喜んでた。
無論、母上が精一杯の愛情を注いだ宝達の今がハッピーであればあるほどにね。
しかし眉を剃りあげた息子を育てあげた母上の器量に完敗、乾杯。
おい。おい。おい。色付きの文字
いっとくが、私は元ヤンではないぞ。むしろ嫌いな人種だ。
かといって真面目だったわけじゃないけどさ。
そりゃ、高校当時、久保田としのぶみたいなちょんまげをしていて、センター試験のときに替え玉と疑われたけどさ・・・。 コンパは川越までの女子高を制覇したけどさ。 高校も大幅に欠席していて、奇跡の卒業だったけどさ。